Crítica: Léa Desandre y Thomas Dunford inician el ciclo barroco de Les Arts
レア・デサンドルとトーマス・ダンフォードがソフィア王妃芸術宮殿のバロックサイクルに出演:公演レビュー

批評:デサンドル、ダンフォード ソフィア王妃芸術宮殿(レ・ザーツ)
文:ペドロ・バルブエナ
「レ・ザーツにおける奇妙な洗練」
昨日のソフィア王妃芸術宮殿(レ・ザーツ)でのコンサートは賛否の分かれる印象を残した。その芸術的提案の最大の弱点はプログラムの首尾一貫性の欠如であり、本来なら歌曲(Lied)やワールドミュージック(Músiques del Món)、偉大なる歌声(Grans veus)といった同劇場の他のサイクルのいずれかに組み込まれてもおかしくない内容だった。これがバロック・サイクルに含まれたのは、単なる枠の都合によるものに違いない。
問題はスタイルの多様性そのものというより、それを正当化する一本の筋(導きの糸)が存在しなかったことにある。「フランスの歌曲における愛」という口実は、いかようにも差し替え可能なほど脆弱なテーマであった。プログラムは、明確な音楽的・劇的な論理による結びつきがないまま、バロック、印象派、パスティッチョ、オペレッタの間を行き来した。そのまとまりのなさを補うはずのフランス語と英語による冗長な説明も、作品同士のつながりを明らかにしたり説得力のある解釈の手がかりを与えたりするどころか、散漫な印象を強める結果となった。ジャンルや時代の境界を越えることと、折衷主義をどこへも向かわない道標にしてしまうこととは全く別物である。結果として、時に奇妙極まりない、多様性が一貫性に打ち勝ってしまった戸惑いを覚えるような提案となっていた。
この散漫さに加え、現代のリサイタルにおいてますます一般的になりつつある別の特徴も見られた。それは、副次的な技量を誇示し、音楽的提案の核心とは無関係な手法によって観客との共感を求めようとする姿勢である。口笛や参加型の演出、客席への呼びかけなどは特定の文脈で効果を発揮することもあるが、それが繰り返されると次のような疑問が生じる。「すべてのコンサートを多才さの誇示やインタラクティブな娯楽へと変える必要があるのだろうか」。すべての音楽体験が、興味深いものであるために自らの境界を超越する必要があるわけではない。これは世代的な感覚の違いかもしれない。
レア・デサンドルは、正確でエレガント、そして趣味の良い歌唱を披露した。そのフレージングとレパートリーへのアプローチは豊かな音楽性と入念な様式的アプローチを示していたが、特に記憶に残るような印象を与えるまでには至らなかった。彼女の声が真の輝きを見せたのはリサイタルのごく一部のパッセージにとどまり、それ以外では表現の持続性に欠けていた。確かな実力による堅実な歌唱ではあったものの影響力は限定的で、その解釈の美徳が類まれな体験へと結実することはなかった。
一方、トーマス・ダンフォードの演奏を考慮すると評価は大きく変わる。筆者は彼が数年前に古楽界の重要人物となって以来、そのキャリアに関心を持って追ってきた。実際のところ、彼の演奏こそがこの夜の最大のハイライトであった。リュートから引き出される極めて多様なニュアンス、色彩、そして強弱の階調は、単なる技術の誇示をはるかに超越した楽器の熟達を示していた。それに加え、常に音楽のアーティキュレーションと驚くほど豊かな表現パレットのために捧げられた、ほぼ完璧な正確さが発揮されていた。プログラムが散漫に見えた場面でも、彼の演奏が集中力と興味をもたらしていた。
総じて、様式的な正当化が難しいプログラム、その意図を説明しきれなかった解説、そして時に音楽そのものよりも効果に頼りすぎたステージ演出によって損なわれた、ムラのある一夜となった。それにもかかわらず筆者自身は大いに楽しむことができ、会場の拍手から察するに、他の聴衆も同様であったようだ。
バレンシア、2026年10月21日(原文ママ)。ソフィア王妃芸術宮殿(Palau de Les Arts)、マルティン・イ・ソレール劇場。「バロックと古楽」サイクル。レア・デサンドル(メゾソプラノ)、トーマス・ダンフォード(リュート)。
※訂正(2026年10月23日):翻訳元の記事の公演データでは、レア・デサンドルの声種を「ソプラノ」としていましたが、主催者のソフィア王妃芸術宮殿(Palau de Les Arts)の公演ページでメゾソプラノと記載されていることを確認し、改めました。
