【連載】トーキョー・モデュレーション 第20回/沼野雄司
【連載】トーキョー・モデュレーション 第20回/沼野雄司

わたしたちが陰謀に惹かれるのは、それが真実と向き合う重荷から解放してくれるからだ。ネット社会では精巧な偽情報やAI生成コンテンツが溢れ、かつて「動かぬ証拠」だった写真や動画の権威は失墜している。こうした偽情報の氾濫は深刻な問題である。
音楽史においても、マスネのオペラ《ウェルテル》の「オシアンの歌」の歌詞が、実は18世紀のジェイムズ・マクファーソンによる偽作であることは通説となっている。偽史には人を惹きつける魅力がある一方で、権力構造の矛盾を浮かび上がらせ、歴史から抹消された「敗者」の声を拾い上げるという側面もある。音楽史家の間では「もしバッハに息子たちがいて資料を伝えていなければ、現在のバッハ像は異なっていたか」といった仮定が語られることもある。
アイルランド出身の作曲家ジェニファー・ウォルシュ(1974-)は、この「偽史」を真正面から扱う現代音楽家である。彼女はダブリンで生まれ、ケヴィン・ヴォランズらに師事。現在はオックスフォード大学で教授を務める。彼女の代表的な偽史プロジェクト『アイルランド前衛芸術の歴史的ドキュメント』(2016)は、架空の作曲家や団体、建築物などを細密なディテールで構築した壮大な虚構の歴史である。このプロジェクトは、歴史とは発見されるものではなく、何を選び何を捨てるかという「キュレーション」の産物であることを可視化している。
また、ウォルシュは「グルパット(Grúpat)」という架空の芸術家集団も立ち上げ、音楽作品から衣装、批評文までを含めた世界観を設計している。これは、音が流通する環境そのものを設計する試みといえる。こうした手法は、ウンベルト・エーコの小説『フーコーの振り子』が描いた、虚構が現実を侵食していくプロセスと通底している。
ウォルシュは声楽作品やオペラも手がけており、近年のテーマは「火星」である。2025年に完成したオペラ《Mars》では、巨大テック企業による火星開発計画の乗っ取りを題材に、現代社会を映し出している。