Un été avec les fils Bach, #4 : Johann Christian
バッハの息子たちとの夏、第4回:ヨハン・クリスティアン

「私のクリスティアンは非常に愚かな子供だが、それゆえに世間で成功するだろう」。老いたカントル(ヨハン・セバスティアン・バッハ)は、1735年9月5日にライプツィヒで生まれた末の息子についてこう語ったとされる。この年、父は『イタリア協奏曲』と『フランス風序曲』を出版し、バッハ家の系譜をまとめている。家族の逸話を超えて、この言葉には血縁関係にもかかわらず、父と息子が異なる世界に属しているという自覚がうかがえる。父とヨハン・クリスティアンを隔てる半世紀は、海のように深い。父は多忙や論争に追われ、息子の教育の大部分を従兄弟のヨハン・エリアスに委ねた。クリスティアンはカール・フィリップ・エマヌエルのもとで修行を終え、その成果は「ベルリン」の6つのチェンバロ協奏曲に結実している。
1755年春、ヨハン・クリスティアンはイタリアへ渡るという人生を大きく変える決断を下す。これは衝動的な行動ではなく、カール・フィリップ・エマヌエルの助言を受けた熟慮の末の逃避であった。バッハ家で150年間誰も故郷を離れなかった伝統を破り、彼はボローニャのパードレ・マルティーニのもとで学び、ローマやナポリへ赴いた。ミラノで職を得るためにカトリックに改宗し、1757年には『レクイエム』を成功させた。彼の書く宗教曲は、家族の遺産というよりはモーツァルトを予感させる優雅なスタイルを持っていた。1760年6月、彼はミラノ大聖堂のオルガニストに就任した。
しかし彼の野心は、バッハ家で誰も手がけていなかったオペラに向けられていた。トリノで『アルタセルセ』を成功させ、ナポリで『ウティカのカトーネ』を上演。その後、ロンドンのキングズ・シアターに招かれ、1762年に指揮者としてデビューした。1763年には『オリオーネ』や『ザナイーダ』を発表し、その後も『アドリアーノ・イン・シリア』や『カラッタコ』などを手がけた。1778年には『スキピオの慈悲』が上演された。また、マンハイムで『テミストークレ』や『ルチオ・シッラ』、パリで『ガリアのアマディス』が上演されている。
オペラ以外の活動も精力的で、カール・フリードリヒ・アーベルと共にロンドンでコンサートシリーズを主催した。協奏曲や交響曲、室内楽など、彼の音楽の流麗さや自然なエレガンスは、1764年にロンドンを訪れた若きモーツァルトに深い影響を与えた。多額の負債を抱え、激務に疲弊した「ロンドンのバッハ」は、1782年1月1日、ロンドンにて胸の病により死去した。彼は父が抱いていたイタリア音楽の本質を捉えるという志を、彼なりの方法で実現したのである。
