Stephen Hough le pianiste en liberté
ピアニストのスティーヴン・ハフ、アルバム『ピアノ・ポストカーズ』で垣根なきレパートリーの自由を追求

『Piano Postcards』において、イギリスのピアニストであるスティーヴン・ハフは、偉大なレパートリーの傑作、サロン風の小品、そして映画音楽を対話させている。このアルバムは、ヒエラルキーや偏見の撤廃を目指して彼が40年間にわたり繰り広げてきた美学的な戦いの一環である。
1986年、ニューヨークのテレサ・L・カウフマン・コンサート・ホールで最初のピアノ・リサイタルを録音するために足を踏み入れた当時25歳の若きスティーヴン・ハフは、1960年代以降の音楽界を支配していたレパートリーの道徳主義から同業者たちを自らが解放することになるとは夢にも思っていなかった。彼はその後も様々な「ピアノ・アルバム」を発表し、その魅惑的で情熱的な選曲は愛好家たちを歓喜させ、ピアニストたちを感嘆させた(ロジャース&ハマースタインの『回転木馬』の「ワルツ」や『王様と私』の「シャムの双子の行進曲」など)。しかし、最初のアルバムは今なお極めて重要な節目である。
『My Favorite Things』は、サロン小品集の中に隠された美学的自由のマニフェストであり、彼はそこにやがてチャートに入るようなトランスクリプション(編曲)を組み合わせていた。その中には、ナチス政権下のザルツブルクでのトラップ一家の冒険を描いたミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』からの、アルバムのサブタイトルにもなったスウィング感あふれる美味しい作品も含まれていた。ハフは、一見軽薄に見えながらも幼少期から親しんできた、胸を締め付ける転調の中に夢への扉やそれ以上のものを開くノスタルジーを秘めた魅力的な音楽へオマージュを捧げたかったのである。またハフは、自らが愛し、レコードを聴いて多くを学んだ往年のピアニストたちにも敬意を表していた。
当時ハフが語ったところによると、彼が本格的なピアノのレッスンを受け始めた頃、教師から両手をずらして弾かないよう指示されたという。ハフは「コルトー、フリードマン、モイセイヴィチのように、それが正しいやり方だと思って自然に」左手をわずかに先行させ、右手をより響かせてフレーズを生き生きとさせていた。しかし、アカデミズムは長い間このような自由を禁じていた。また彼は、シューラ・チェルカスキーら存命の人物にも敬意を払っていた。ハフとチェルカスキーは互いに敬愛し合っており、グランジュ・ド・メスレでのリサイタル後、当時その場にいてハフの楽屋の椅子にトマス・アクィナスの『対異教徒大全』が置かれているのを見て驚嘆した故ジャック・ドリヨン(『ル・ヌーヴェル・オブセルヴァトゥール』紙)らを目撃者に、高齢のチェルカスキーがハフを抱きしめたこともあった。
確かにこの40年で、ピアノは押し付けられた規範から解放された。今日では、作曲、即興、編曲、トランスクリプションを行うピアニストの数は数え切れない。「クープランやラモー、バッハはチェンバロで弾くべきだから」と遠ざけられ、ホルヘ・ボレットやチェルカスキーが語ったようにドイツでは破門に値する低俗の象徴とされたリストの超絶技巧曲を忌避し、ショパンを白眼視し、編曲を毛嫌いして、若いピアニストをモーツァルトからラヴェル、新ウィーン楽派、そして罪を免除してくれる現代音楽へと至る決められた道筋に閉じ込めていた道徳主義の軛は、もはや不要となったのである。
当時の音楽批評は融通が利かないことが多かったが、世代交代が状況を一変させた。現在では、音楽院で白眼視されることもなく、チェンバロ、フォルテピアノ、ジャズのクラスに登録するピアニストもいる。もはや単一の楽器に縛られる必要はなく、マーラーかブルックナーか、ブーレーズかグラスか、ベートーヴェンかリストのハンガリー狂詩曲かといった二者択一を迫られることもない。ロベルト・シューマンとともに始まった道徳主義的批評は店をたたみ、引退した。その批評は今や、ピアニストたちの大規模な解放運動に寄り添っている。そしてCDは、大手レーベルから見捨てられていた古い音源を、過去の遺物としてではなく高まる関心とともに復刻できるようになった。
ピアノは今、黄金期を迎えており、音楽への完全な献身ゆえに教皇のように真面目でありながら英国的なエキセントリックさを持つスティーヴン・ハフは、その主要な立役者であった。若い世代のように、レパートリー、音楽的アプローチ、ピアノのスタイルにおいてこれほど自由をもって演奏された時代はおそらくかつてない。世界中の音楽批評もこの自由を後押ししており、明確な美学や技術の反映というより過剰なナショナリズムの名残である「ピアノの流派」にピアニストを閉じ込める悪習を否定する傾向が強まっている。
もちろん、定期的に「秩序の回復」を図り、突出した才能を排除して無難な者を評価しがちなピアノコンクールも依然として存在する。スティーヴン・ハフがリーズ国際ピアノコンクールのディレクター就任を引き受けたのは、コンクールを牛耳る教員審査員たちのアカデミズムの亡霊を遠ざけ、コンクールを活性化させるためであったのだろう。イヴ・ナットの「偉大な生徒が偉大な教師を作る」というモットーを忘れてはならない。本質的なことは教えられるものではないのだ。
もっとも、ハフにとってこれが容易な道であったわけではない。

