【連載】音符の向こう側/城所孝吉 第22回 オペラ《椿姫》ゼミナール完結篇
音楽評論家の城所孝吉、連載「音符の向こう側」第22回でオペラ《椿姫》を世俗的ミサとして考察

音楽評論家・城所孝吉氏の連載第22回として、「オペラ《椿姫》ゼミナール」の完結篇が公開された。この企画は旧「レコード芸術」の『喜多尾ゼミナール』をアレンジして復活させたもので、城所氏(K)とオペラファンの学生2名(A:男性、B:女性)の対話形式で作品を深く掘り下げている。
対話ではまず、《椿姫》における「同情(Mitleid)」や「浄化」の要素が、キリストの受難(パッション)と類似している点が議論された。キリスト教においてイエスが無垢でありながら人々の罪を背負って十字架で死に、会衆がミサ(聖餐)を通じてその受難と犠牲を追体験してカタルシスを得るのと同様に、《椿姫》のヴィオレッタも登場人物たちの罪を受け止め、自らを犠牲にして死んでいく。特に第2幕フィナーレにおいて、アルフレードに侮辱され倒れ込んだヴィオレッタが愛を歌い、合唱がそれを見守る場面では、客席の聴衆も夜会の客たち(合唱)と同じ目撃者として劇の空間に取り込まれ、ミサでキリストの受難を目撃・再体験するのと同様の構造が成立していると解説。「劇場的ミサ」あるいは「世俗的ミサ」と呼べる性格を持つと指摘された。また、指揮者のリッカルド・ムーティが自伝などで、賭けの場面の執事のセリフ「晩餐の用意が整いました(La cena é pronta.)」について、聖餐(チェーナ)およびヴィオレッタの犠牲の予告として悪魔的・宿命的に歌われるべきと捉えている節があることにも触れている。
後半ではワーグナーの《パルジファル》との比較が行われた。ヴェルディ自身には宗教的意図はなく、当初のタイトル案《愛と死》が示すように「人間の真実」や愛による自己犠牲を描く中で結果的に宗教の根源的主題に到達したのに対し、同い年(1813年生まれ)のワーグナーは「舞台神聖祭典劇」として意識的に宗教的音楽劇を企図し、「聖なる愚者」による「同情による救済」を描いた。記事内では、《パルジファル》が崇高な音楽でありながら生きた登場人物の物語としての具象化に課題を残し鑑賞者自身の直接的な救済には結びつきにくい側面がある一方、《椿姫》は1850年代の生々しい人間ドラマを描きながら結果として深い救済をもたらす点などが対比され、19世紀という時代の特徴を映し出していると論じられている。
