名盤の外側でたどるシャルル・ミュンシュ③
シャルル・ミュンシュの現代音楽への取り組みと日本ツアーの軌跡

シャルル・ミュンシュは、ベルリオーズ、ラヴェル、ドビュッシーといった十八番を軸に定番レパートリーを披露する一方で、終生同時代の音楽を重視していた。ロスバウトやシェルヒェンとは異なり、新ウィーン楽派やクセナキス、ブーレーズを指揮することはなかったが、パリ時代からの作曲家との交流を通じ、新作の普及に努めた。
1937年のロンドン・デビューではアロイス・ハーバのオペラ《新しい土地》序曲を採り上げ、ボストン響音楽監督就任直後の1949年11月にはジョリヴェ《オンド・マルトノ協奏曲》(独奏ジネット・マルトノ)のアメリカ初演を行った。また、ボストン響での最後の演奏会ではオネゲルの《ニガモンの歌》とベートーヴェンの《交響曲第9番》を組み合わせている。ボストン響創立75周年にはクーセヴィツキー財団と15の作曲家への委嘱を行い、ピストン《交響曲第6番》やマルティヌー《交響曲第6番(交響的幻想曲)》などを録音した。ボストン響での最後の演奏会プログラムには、39の世界初演、58のアメリカ初演、97のボストン初演を行ったと記されている。
ミュンシュは3回来日している。1960年のボストン響とのツアーは、日米修好通商100周年と大阪国際フェスティバルへの出演が目玉となった。旧NHKホールでの演奏会にはダグラス・マッカーサー2世や皇太子夫妻も出席し、日米両国国歌、ベートーヴェン《交響曲第3番「英雄」》、ラヴェル《ダフニスとクロエ》第2組曲が演奏された。巡演中には広島の平和記念資料館訪問や、仙台でのドビュッシー《海》の演奏などが行われた。
1962年にはアンリオと来日し、日本フィルと4回の演奏会を行い「ミュンシュの第九」を指揮した。1966年にはジョルジュ・セバスティアンとフランス国立管との日本ツアーを行い、アンリオがプロコフィエフ《ピアノ協奏曲第2番》の日本初演を行った。この際、小澤征爾との面会で「毎日が勉強であり発見がある」と語った逸話が残されている。