オギュスタ・オルメスに魅せられて 生涯・作品編/小林緑
音楽学者・小林緑によるリレー連載、女性作曲家オギュスタ・オルメスの生涯と作品を解説

注目すべき女性作曲家を紹介するリレー連載の第7回に、オギュスタ(オーギュスタ)・オルメス(1847~1903)が登場する。19世紀フランスで活躍したオルメスは、サン=サーンスやドビュッシーに評価され、1889年パリ万博で大作《勝利の頌歌》を発表した。本稿は音楽学者の小林緑による「生涯・作品編」であり、音楽評論家の谷戸基岩による「録音編」も存在する。
(1)オギュスタ・オルメスはどのように生きたのか
オルメスは1847年12月16日、アイルランド出身の父とスコットランド=アイルランド系の母のもとにパリで生まれ、ヴェルサイユに移住した。母親は娘が音楽を学ぶのを妨害したが、11歳で母親が亡くなり音楽の勉強に専念できるようになった。20歳の頃にはサロンを開き、サン=サーンスが熱心なサポーターとなった。20歳で歌曲集を初出版し、一部は「ヘルマン・ゼンタ」という男性名義を用いた。21歳でミュンヘンを訪れワーグナーの《ラインの黄金》初演に立ち会い、ワーグナー宅で歌曲を披露してワーグナーやリストを魅了した。
詩人カチュール・マンデスと同棲して5人の子どもをもうけ、そのうち3人の娘の肖像画をルノワールが描いている。1872年にフランス国民音楽協会のコンサートで作品が演奏され、1875年にはフランクの門下に入った。フランクの最後の傑作《コラール第3番》はオルメスに献呈されていたが、出版時に弟子たちにより変更された。1889年のパリ万博ではカンタータ《勝利の頌歌》、翌年にはイタリア政府の依頼でカンタータ《平和への讃歌》を作曲した。しかし1895年にオペラ座で上演されたオペラ《黒い山》が失敗し、マンデスは去った。晩年は困窮や次男の早逝に見舞われ、1903年1月28日に最後の歌曲に署名した直後に心臓発作を起こし、1週間後に56歳で死去した。
(2)オギュスタ・オルメス再考
筆者は1999年に『女性作曲家列伝』を上梓後、パリでの在外研究などを経てオルメスを捉え直した。
・ポイント1:没後100年をめぐる様々な動き
1999年当時、フランス国内ではサロン風コンサートや講演会、展覧会、録音計画、伝記出版などの動きが存在した。ヴェルサイユにはオギュスタ・オルメス通りや、サン=サーンスの肝煎りで完成したサン・ルイ墓地の記念碑がある。ランビネ美術館にはギュスタヴ・ジャケによる巨大な全身肖像画や、オルメス自作の絵が施された愛用の指揮棒が保存されている。
・ポイント2:キャリア志向を徹底した女性作曲家
オルメスの本懐は管弦楽作品にあり、交響詩9、カンタータ3、オペラ4を手掛けた。《勝利の頌歌》は1889年に25,000人の観客の前でコロンヌの指揮により初演され、1,200人の演奏人員を要した。在世中に管弦楽曲は約80回以上上演され、オペラ《黒い山》は賛否両論のなか同年中に13回上演された。1885年以降は断髪と男装を行い、晩年には自作の指揮もした。音楽様式は男性的な力強さだけでなく女性的な語法も併せ持つものであった。
・ポイント3:オルメスにとっての音楽
オルメスにとって音楽は公的社会に貢献し、ステレオタイプな女性の生き方を忌避する手段であった。《獅子の騎士》《復讐》《戦乙女》などの愛国的主題の歌曲や、交響詩《ポーランド》《アイルランド》、オペラ《黒い山》のように民族抗争に想を得た作品を手掛けた。


