Vytautas Bacevicius (1905-1970)
リトアニアの作曲家・ピアニスト、ヴィータウタス・バツェヴィチウスの生涯と芸術
「真の創造者とは、人生の障害に注意を払わない思想の人である」。1963年、ヴィータウタス・バツェヴィチウス(1905-1970)は自らをこう定義した。亡命や排除といった言葉が、彼の芸術的キャリアと人生の半分を決定づけた。彼はウッチの音楽一家に生まれ、父ヴィンカスはウッチやカウナスで教鞭を執った。兄ケストゥティスはピアニスト、姉グラジナ・バツェヴィチは作曲家・ヴァイオリニストとして知られる。
9歳で作曲を始め、11歳でデビューしたバツェヴィチウスは、ウッチでシコルスキに作曲を、トゥルチンスキにピアノを学んだ。1926年の卒業後、カウナスで哲学と美学を学び、その後パリへ渡りニコライ・チェレプニンに師事。パリではマルティヌー、タンスマン、ルリエ、アレクサンドル・チェレプニンらと交流し、サンティアゴ・リエラから教えを受けた。
1931年にカウナスへ戻り、1934年には管弦楽曲『電気的詩(Poème électrique)』を初演。オネゲルの『パシフィック231』やモソロフの『鉄工場』などの影響を受けたこの作品は、当時の保守的な聴衆に衝撃を与えた。この時期、交響曲第1番、巨大な『宇宙的詩(Poème cosmique)』、ピアノのための詩曲、ピアノ協奏曲第1番などが作曲された。
1930年代、ピアニストとして欧米で300回以上のコンサートを行い、国際現代音楽協会(SIMC)のリトアニア代表も務めた。1939年、南米ツアー中にリトアニアがナチス・ドイツとソ連に占領され、帰国不能となる。ブエノスアイレスで交響曲第2番「戦争(Della Guerra)」を作曲した。
1940年にニューヨークへ移住したが、作品の評価は得られず、市民権取得にも苦労した。マッカーシー時代の「赤狩り」では共産主義者と疑われ、国外追放の危機にも直面した。晩年は交響曲第6番「宇宙的(Cosmique)」や『グラフィック(Graphique)』、『言葉(Mots)』シリーズなど、ヴァレーズやジョリヴェ、メシアンに通じる独自の「宇宙的時代」の作品を残したが、生前は注目されなかった。彼は音楽を宇宙の均衡を保つ磁力を生む鍵であると信じ、アメリカの物質主義的な文化を嫌った。

