À Glasgow, un centenaire macabre et burlesque pour “Turandot”
スコティッシュ・オペラがグラスゴーでプッチーニ『トゥーランドット』を上演、デイヴィッド・マクヴィカー演出による初演100周年記念公演

グラスゴーにて、『トゥーランドット』の不気味で滑稽な100周年記念公演
ニューヨークのメトロポリタン歌劇場をはじめとする大劇場に追われ、大作の上演を重ねるうちに初期の圧倒的な演劇的強度が時にフランコ・ゼッフィレッリを思わせる装飾的過剰さに薄まることもあったデイヴィッド・マクヴィカーだが、自身の生地であるグラスゴーとエディンバラで順次公演を行うスコティッシュ・オペラには忠実であり続けている。今回の『トゥーランドット』は見事にそれを証明している。劇場の規模や配分・投入される手段のスケールの変化が、彼の創造性を刺激しているかのように有益に働いている。第2幕冒頭で大臣3人組がアヘンの煙の中で郷愁を口ずさむ場面での目配せを除けば、台本にある伝説の中国は排除され、プッチーニ最後のオペラが作曲・初演された時代、すなわちムッソリーニが権力を掌握した時代に美学的に根ざした非現実的な世界が広がる。
【無窮動】
チャールズ・エドワーズは、豪華に荒廃し退廃したアール・デコ様式の劇場またはキャバレーのような空間を設計した。そこにはコッポラの『ドラキュラ』から抜け出してきたかのような、首をはねられた求婚者の血を貪るアルトゥム皇帝とともに、生ける屍のような仲間たちが群がっている。1815年にシンケルがデザインした『魔笛』の装置から借用された星空を背景に、幻想の18世紀から現れたクリーチャーのように、パニエのドレスに身を包み孔雀の羽をあしらった頭飾りをつけた夜の女王のごときトゥーランドットが、青白く純潔な姿で登場する。彼女の傍らには、自らがもはや子供ではないことを拒絶する少女の姿と、謎解きの場面で棺に納められて晒される、かつて凌辱された祖先の記憶が寄り添う。マクヴィカーの舞台は不気味かつ滑稽であり(ピン、パン、ポンがチャップリン、ローレル、ハーディの姿で現れるとなおさらである)、残酷で絶望的であり、秩序を失うことのない無窮動の中に巻き込まれ、台本の字面から最もかけ離れた演出においてすら作品が常に硬直しがちなポーズを避けている。また、トスカニーニによって削除・強要された版ではなく、アルファーノによる完全版フィナーレを採用したことで、氷の姫の心変わりがより説得力を持つものとなり、彼女はカラフとともに、ついに光へと開かれた扉を抜け、苦悶する精神の牢獄から脱出する。
トリーネ・モラーとヴィクター・スターズキーは、難度の高い歌唱を衰えない技量でこなした。高音域を類まれな容易さと輝きで響かせるテノール(スターズキー)は、以前は中音域での存在感がやや弱かったが、これはまだ発展途上の技術によるものかもしれず、恵まれた資質の約束を果たせるようになることが期待される。当初わずかに不安定だったソプラノ(モラー)は、発声を整え、並外れた要求を課されるタイトルロールのあらゆる難所を、旋律線とニュアンスの感覚、さらにはその難しさゆえに当たり前とはいえない明るさと柔軟性を兼ね備えて乗り越えた。
【チームワーク】
やや弱々しい歌い出しののち、イ・ヘユン(Hye-Youn Lee)は夢のようなメッサ・ディ・ヴォーチェを披露し、心に直接届く誠実さでリューを演じた。告知を繰り返すため客からからかわれる道化役のムッシュー・ロワイヤルのようなダニエル・バレットの明瞭に響く役人、決して老いぼれてなどいないジェイミー・マクドゥーガルのアルトゥム、異例なほど力強いシム・インスン(Insung Sim)のティムール、そして切れ味のある大臣3人組に至るまで、出演者全員が高い音楽水準を維持した。時には隊列が乱れつつも常に鋭い合唱団と、包容力というよりは率直な響きを持つオーケストラの輪郭を磨き上げ、鋭く切り込むスチュアート・ストラトフォードの指揮も公演を支えた。
要するに素晴らしいチームワークであり、初演から100周年を迎えた『トゥーランドット』が、このような集団の熱意の恩恵を受けることは滅多にないだろう。
プッチーニ作曲『トゥーランドット』。グラスゴー、シアター・ロイヤルにて2026年10月28日。11月7日まで上演の後、エディンバラのフェスティバル・シアターにて11月11日から22日まで上演。
