Disparition de Stephen Kovacevich
ピアニストで指揮者のスティーヴン・コヴァセヴィチが逝去

スティーヴン・コヴァセヴィチの逝去
スティーヴン・コヴァセヴィチは1940年、音楽を愛する家庭のもとロサンゼルスに生まれた。幼少期、父親のレコードプレーヤーが彼に最初の音楽的感動をもたらした。「モーツァルトの交響曲第40番、ヨハン・シュトラウスの『ウィーンの森の物語』、そしてワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、これが私の最初の3つの愛でした」と彼は2015年に明かしている。7歳からピアノを始めたが、本人曰く10歳までは何もうまくいかなかった。11歳の時、ドビュッシー、バッハ、モーツァルトにチェレプニン、カバレフスキー、バルトークを並べたプログラムで公開デビューを果たした。「とても緊張してかなり動揺しましたが、2回目のコンサートはうまくいきました。」1951年、サンフランシスコ交響楽団とジャン・フランセのコンチェルティーノを演奏するよう招かれ、その後まもなくラヴェルのピアノ協奏曲ト長調やシューマンの作品54を共演した。
母親の再婚によりスティーヴン・ビショップとなった彼は、17歳のときに奨学金を得てロンドンへと渡った。マイラ・ヘスのもとで技術を磨き、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスに取り組み、これらは彼のレパートリーの柱となった。1961年、ウィグモア・ホールで行われたリサイタルでキャリアが飛躍し、ベルクのソナタ、バッハの3つの前奏曲とフーガ、ベートーヴェンの『ディアベッリ変奏曲』で聴衆を魅了した。その数か月後、ヒズ・マスターズ・ヴォイス(HMV)で、その名も『レコード・デビュー』と題された最初のディスクを録音した。A面にはベートーヴェン(ソナタ『悲愴』)とシューベルト(楽興の時第6番)、B面にはショパン(舟歌、バラード第4番、即興曲第1番)が収められた。
肉体と魂
スティーヴン・ビショップ(後にコヴァセヴィチ。1970年代に父親の姓に戻すことを決めた)は、その後フィリップスに移籍した。「1969年、彼は生き生きとして極めて明晰、情熱的で感動的な『ディアベッリ変奏曲』で音楽界を驚愕させた」とアラン・ロンペシュは本誌に書いている。「続いて、ベートーヴェンが警句的であることを望んだとおりにほのめかしに富み、衝撃的なバガテル作品33、119、126が登場する。そしてクララ・ハスキルと同様に堅牢な枠組みの中で即興的に演奏されたソナタ作品31の第2番と第3番。コヴァセヴィチはまた、コリン・デイヴィスが新婚の夫のような心遣いで指揮した協奏曲においても、堂々と、見事に存在感を示した。」彼はブラームスを「率直で、明快、時に険しく、ほぼ常に人を惹きつける形で演奏した。『ヘンデル変奏曲』や、まるでライヴであるかのように生々しく体験される2曲の協奏曲に至るまで! […] もう一つの素晴らしい成果は、ポリーニやアバドが同等には到達し得なかったリズムの弾力性と雰囲気を伴って解釈された3曲のバルトークである。」
1990年代には、今度はEMIでベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を録音し、これは史上最高峰の一つであり続けている。アラン・ロンペシュは再び本誌で、「性格づけ、即興の感覚、驚き、狼狽、優しさ、すべてのフレーズに入り込む生命、リスクテイキング、内なる声に耳を傾けること、そして疑いや自分自身に対する長年の努力と闘いの勝利を飾る楽器演奏の身振りの中に解き放たれた力」を激賞している。「ソナタ作品101のアダージョは、筆舌に尽くしがたく美しく感動的で、感嘆するだけでなく愛さずにはいられないこの全集を、天才の閃きで締めくくっている。」
常に耳を澄ませていたコヴァセヴィチは、同時代の音楽にも関心を寄せた。1969年にはリチャード・ロドニー・ベネット、1974年にはマイケル・ティペット、1979年にはジョン・タヴナーが彼に捧げたピアノ協奏曲を世界初演した。熱心な室内楽奏者でもあり、ジャクリーヌ・デュ・プレ(ヒズ・マスターズ・ヴォイスにベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第3番・第5番を録音[※原文ママ:チェロではなくviolonと記載])やヨゼフ・スーク、アマデウス弦楽四重奏団と共演した。後にはヴァイオリニストのルノー・カピュソンやアリーナ・イブラギモヴァ、チェリストのスティーヴン・イッサーリスやトゥルルス・モルク、フルート奏者のエマニュエル・パユ、ベルチャ四重奏団らとステージを共にした(これは網羅的なリストではない)。とりわけマルタ・アルゲリッチとは、ステージでも録音でも、そして一時期は実生活でも親密なデュオを結成した。
1980年代には指揮活動にも進出した。『グラモフォン』誌でジェライント・ルイスは2016年に次のように悔やんでいた。「彼のキャリアのこの側面が、バレンボイムやアシュケナージのようにレコード会社によって活用されなかったことが惜しまれる。ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズとのコンサートで、コヴァセヴィチがモーツァルトの交響曲『ジュピター』(すべてのリピートを含む)で私がステージで聴いた中で最も美しい演奏を、そしてベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番でソリストとオーケストラが一体となった最も爽快な演奏を指揮したのを覚えている。」
舞台恐怖症と苦悩
しかし、舞台恐怖症はステージに立ち始めた頃からこのピアニストにつきまとっていた。思春期には「母、義父、そして先生の不安を強く感じすぎていました。もし神童の子供がいるなら、親の幸福がその子の演奏にかかっているなどと思い込ませてはなりません!」と語っている。彼はこのストレスに対処するため絶えず取り組み続けた。「真面目さが足りなかったことは一度もありません。常に万全の準備をしていました。もちろん心理的要因は存在しますが、メンタルトレーナーの助けを頼りにすることができました。 […] 精神分析は私にとって全く役に立ちませんでしたが、一方で友人の支えは有益であることが分かりました。」
『ガーディアン』紙のトム・サーヴィスが回想するように、彼の会話は「常にこのような展開を見せた。絶対的な激しさを持ち、明確な意見に彩られ、彼が語る人物たち――それがショパンからベートーヴェン、ブラームスからモーツァルト、バッハに至る演奏家であれ作曲家であれ――が、まるで再びリアルで情熱的で生き生きとした存在として呼び戻されたかのように、その場に居合わせているような感覚を与えた。それこそが、彼の演奏の中で感じ、聴くことができたものだった。」照らし、輝かせ、しかし焼き尽くす炎。

